HISTORY-KAMAKURA 場所の記憶 No.4

鎌倉に暮らして20余年。おおらかな海と、険しい崖に囲まれた自然の要塞として恵まれた地形を持つ中世の記憶が色濃く残るこの地では、人々の死の痕跡があちこちに残されているのを感ぜずにはいられません。 山のあちこちに残る山肌を掘って作られた鎌倉独特の祠は、中世の墓 であったと言われています。山道への散歩に出かけるとここかしこに石で作られた五輪の墓が誰が守るともなく当時のままに残されているのを見ることができます。それはすべて私達の日常の暮らしのすぐそこに、あるのですがそれは決して私達の溶け込むことはなく、『異界』として存在しています。ミルクホールを出て、踏み切りを横切り線路伝いに山の方へ ぶらぶら歩いていくと小さな横道に出会います。その小道はどんどん細く険しくなっていきますが、構わず登って行くと、そこは暗くいつも水が垂れ てぬかるんでいます。その先が有名な『化粧坂(ケワイザカ)』です。坂とは名ばかりで、大きな岩がごろごろと横たわり、人を通すまいとしてい るかのような難所です。ここを抜けると、その先は今では綺麗に整備さ れた源氏山公園に出ることができます。『気和飛坂山上』とは鎌倉時代の商業地区を定める法令に残された名です。現在頼朝像のある源氏山上が、葛原が丘一帯を指す当時さかんに商売が行われた場所だと思われます。また、化粧坂辺りの一帯では埋葬人骨が発見されています。中世都市鎌倉の住民たちは浜のほか周辺の山中にも死者を遺棄していたに違いない。商店街の賑わいと死者の共存。信じがたいような風景ですが、山中他界といわれるような考え方があったのでしょうか。「階などのように重々に、袋の中に物をいれたるように住まいたる」

正応2年(1289年)後深草院二条

2006 Milk Hall Times 119th